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ザ・ナターシャーセブンのこと



2004年11月18日
浅山雄二


ザ・ナターシャーセブンと伸ばした表記だったはずだ。1971年から1984年にいったん解散するまでの表記はこうだった。1970年代に中学高校を過ごした僕にとって、このナターシャーセブンは一つの宗教のようなものだった。いや今でもそうだ。僕は人生の中で、それぞれの人はなにか宗教のようなものを持っている方がいいのではないかと思う。そこまでおおげさでなくとも、心のよりどころのようなものだ。僕は、幸せにも二つ持っている。一つがラグビーでもう一つがナターシャなのだ(1998年以降の表記はナターシャセブン)。

大阪の普通の府立高校のラグビー部でさえ、ナターシャを知っているものはいなかった。当時はディープパープルであり、憂歌団であり、せいぜいダウンタウンだった。そして荒れる中学高校と言われた時代であり、ラグビー部は不良の溜まり場でもあった。僕の高校のように勉強もたいしてできず、スポーツも強くない学校でも、ラグビー部には僕のように真面目にラグビーをしたいものと、なにか箔がつくからというような理由で不良高校生とが混在していた。そんなラグビー部にはナターシャは不釣合いだった。その高校にはフォークソング研究会というクラブもあり、そこではナターシャも歌われていた。校庭の端の方で「明日になればね」とか「別れの恋歌その1」などを、同じクラスの人気者だった吉田順子が歌っていた。「浅山君も一緒に歌ったらええのに」と言われ、「あほ、ラグビー部が歌なんか歌えるか」とかっこつけていた誰にでもある青春時代である。その吉田順子の彼氏は僕の中学の同級生でナターシャが大好きだった。彼の高校は僕の高校よりも優秀と言われる隣の高校だった。僕たちはおこずかいを貯めて、大阪サンケイホールや京都の歌舞練場のコンサートに行った。少しだけ残念なことに吉田順子は一緒ではなかった。僕はTokaiの5弦バンジョーを買い、彼はギターを買って、二人で隠れてナターシャを歌っていた。別に隠れることはないのだが、ラグビー部としては、ナターシャは少し避けたい雰囲気があったのだ。僕はラグビーの練習と、難し過ぎてあきらめたバンジョーの代わりに、ギターで「もりかげの花」に挑戦するという、高校時代をおくっていた。

1978年に高校を卒業し、東京で浪人生活をおくった。この年はナターシャの107ソングブックシリーズやらいこまいかのアルバムやらがたくさん出ていたように思う。浪人中の僕は、勉強の気分転換にギターを弾いてはナターシャの曲を歌っていた。1年後僕は学習院大学に入学し、そこでまたラグビー部に入部した。高校の同級生でラグビー部の主将だった男が、拓殖大学のラグビー部に先に入部していて、彼のアドバイスで大学の体育会は、3月中に入部しないと入れてくれないぞと言われ、僕は3月末から練習に参加した。高校のラグビー部はいつも大阪府予選の二回戦ボーイだった。学習院は下位とは言え、当時はAとBに分かれていなかった関東大学対抗戦グループに所属していて、明治や日体大などの強豪とも試合が組まれていて、練習は熾烈だった。拓大の同級生と練習が休みの月曜日に酒を飲みながら、今思えばなんて平和だったのだろうという高校時代のラグビーの話しをした。大学に行ってわかったのだが、僕たちの高校の練習は大学の準備運動程度だったのだ。

そういうもう一つの宗教にはまりながらも、僕はナターシャも追っかけていた。東京でも浅草公会堂や厚生年金会館で、ダウンタウンとのジョイントコンサートにまで足を運んでいた。107シリーズも全て揃え、宵々山コンサートのレコードも揃えて、時にはギターを持って歌ったりもした。

しかし、ラグビー部での戦いの方にだんだんと僕の生活の重点が移っていき、僕はもう一つの宗教であるナターシャから少しずつ離れていった。ともやさんがなにかに書いていたけど、ナターシャが目指すものは体育会ではなく同好会なのだと。押し付けられるのではなく自然発祥的な存在なのだと。異論があるかもしれない。ナターシャのメンバーの技術はきわめて高く、彼らの合宿での練習は相当にきつかったようだ。体育会よりも厳しい存在かもしれない。また、体育会というのがそれほどいい意味ではない時代である。

僕なりの解釈がある。同好会的というと印象が悪いが、基本的には大人の世界である。ラグビーをやりたいならやりたいものが集まって自分の責任で目標を目指す。それが理想である。でも僕は体育会も否定しない。社会人になってまで先輩風をふかすのは賛成できないが、子供から大人になる時代に、限られた時間の中で、わかりやすい目標を達成するためには、体育会はなかなかによいシステムだと思う。ただ大学時代の僕にはそこまでわからなかった。子供から大人の男に成長していく時期だったのだろう。僕は体育会のラグビーという宗教にすっぽりとはまり、ナターシャはいつしか薄れていた。それでも城田さんのソフトシューズは持っている。1982年のアルバムだと思う。そしてそのアルバム以降僕はナターシャという宗教から一時脱退してしまった。

1983年に大学を卒業し、サラリーマンになった。ラグビーの練習がない日々は楽で楽でしょうがなかった。1985年にインドネシアに赴任し、その後サラリーマンをやめる1998年までの15年間のサラリーマン時代の約半分の期間を海外で過ごした。ナターシャのことはほとんど思い出すこともなくなっていた。

1998年に脱サラしてなぜか僕は飲み屋を始めた。そして2001年だったと思う。NHKのBSの番組にナターシャの名前を見つけた。その文字はまさに目に飛び込んできた。ナターシャは3曲演奏したと思う。フォギーマウンテンブレイクダウンと春を待つ少女、そしてダッチマンだったと思う。僕はテレビの前で動くこともできなかった。15年ぶりに見たナターシャは凄まじかった。そしてともやさんもじゅんじさんもしょうごさんも、いい感じに年を取っていて、とてもかっこよかった。そのころは夜は飲み屋、昼は今も続けている仕事という、昼夜営業の男であった。昼の仕事場のパソコンでナターシャを探し、懐かしい107シリーズのCDと宵々山のCD集を思わず買ってしまった。けっこうな出費だった。

そして2002年の7月の浅草公会堂に妻を連れて、ナターシャを見にいった。満員だったと思う。最初に城田さんの「わらぶきの屋根」のギターが始まった瞬間から、最後の「陽気に行こう」まであっというまだった。ナターシャはやはり素晴らしかった。僕はとても興奮して、帰り道、妻にナターシャのことをしゃべりまくっていた。そしてナターシャセブンとしてはそれが僕が見た最後のステージとなった。

その後しょうごさんは永眠し、じゅんじさんは傷害事件で起訴されている。ナターシャがまた解散した2002年以降も、都内のライブハウスに何度も行き、ソロでの演奏も楽しませてもらった。ナターシャセブンが復活することはありえなくなった。それでも僕の中では今でもラグビーと並ぶ大切な宗教なのだ。しばらく脱退していたけどまた入信したのである。ラグビーのプレーをするのは歳とともに難しくなってきた。でもナターシャならいつまででも歌える。

僕の今の企みはまたどこかで飲み屋を始め、今度はナターシャの曲ばかりかけて、ナターシャナイトの仲間がいつでも演奏できる店を持つことなのだ。それまで頑張って働かなきゃなあ。

以前やっていた飲み屋に、東大ラグビー部のOBで、僕の二歳下の人がよく来てくれていた。その人がある飲み会を僕の店で行ってくれて、その時に知り合ったのがブリハチの水野さんである。それからナターシャナイトに参加している。ハチダラでもそういう素敵な出会いがあればいいなあと思います。/以上


11月24日更新
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